ヨタ話

無名アニ関民のアニメ&映画ライフログ

ねらわれた学園 (2012)

 @大阪ステーションシティシネマ スクリーン12。席が埋まってるということは作品が人気ということなので喜ぶべきことなのだが、なんで人数少ないのに、わざわざ隣接した座席が埋まるのか、解せぬ……。
 原作の孫世代を描いていて、また、現代らしく携帯電話も取り入れるなど大幅アレンジ。しかしその結果、なんやらよくわからない作品が完成している。先に褒めておくと、絵作りはむちゃくちゃキレイ。光の効果とか、そこまでやりますか!というぐらいキラッキラ。夕日、星空から教室の机の照り返しまで、どんだけ力を入れているというのか……アート作品かというぐらいに細かい。具体的に舞台が鎌倉〜江ノ島と決められていて、見知った光景がそっくりそのまま再現されているのも素晴らしい。
 また、メインキャストに渡辺麻友を起用しているが、ここに特に文句がない。さすがに当代最高の若手女性声優である花澤香菜がライバルヒロインにいて、ほかに戸松遥小野大輔、子役から経験の多い本城雄太郎と並ぶと一枚落ちるが、「ええー、アイドル起用かよー」ってのがない。まぁ、もともとアイドル映画・ドラマの原作にされてるんですけどね。
 しかし、お話にはまったく身が入らなかった。京極←カホリ←ケンジ←ナツキといううまくいかない恋愛模様はよかったのだが、結局、超能力と携帯電話の扱いがなんやら微妙なことに……。原作とは時代が違うから学園支配のやり方がかわるのはわかるけど、携帯電話取り上げて学園支配への流れがまったく腑に落ちない。どこが「ねらわれた学園」なんだか、ぜんぜん学校噛んでこないし、斎藤先生も意味ありげに出てきて、後半は出番ゼロだし……。
 ナツキが携帯電話持ち込んでつるし上げ食ってるときの反応を見ると、みんな洗脳されてるわけじゃないはずなのに、能力ナシと見なされた友達がまったく登校してこなくなって(これはなにやら手を回してるみたいだけど)心配もしてないって、どういう支配の仕方?洗脳以外ねーじゃん。それと、相手の気持ちがわかる/わからないと、どういう関係が。
 テレパシーっていうのは相手の思っていることが全部わかる能力なわけではないよね、サトリ/サトラレじゃないんだから。なんか、突き詰めるとめんどうな部分、ぜんぶ観客に丸投げされてる感じが。能力者を総ざらえして未来に連れて行ったら、そもそもその未来の人たちが生まれなくなるのではないかという部分とか、「こまけーこと気にするな、なんとかなるんだよ」ってことなんだろうか。「ゴジラvsキングギドラ」でも「放課後ミッドナイターズ」でも時間を越えるといろいろややこしく繋がるって描写があったのに、時間越えてなんのデメリットもないとか、おかしくね。そのあたりはケンジとナツキが幼いころに屋根から落ちた件で、歴史は影響を与えた分だけ他のところでつじつまを合わせに来るって説明してた(本来はケンジが屋根から落ちて死んでいた→ナツキが落ちて足を骨折したことに変わった)けど、この京極の動きの揺り戻しは現代に来るわけだから、結局未来人は月で細々と生き残ってるだけになるんじゃねーの?京極父がどういう解釈をしたのか聞きたい。
 それにしても、ケンジの能力がどういうものだったのかは(見てる限りでは)よくわからんままだった。京極のやろうとしていることは何となく感づいたとして、未来に京極を送っていって、なにさらっと帰ってきてんの?携帯電話をトリガーとしてケンジに関するナツキの記憶は戻ったけど、屋根から落ちる事故の前から幼なじみだったんだから、「ケンジって誰だっけ」まで忘れることはないんじゃねーの?釈然としない点多すぎんよー。
 パンフレット見たらなにか書いてあるかなと思ったけれど、そこまで核心ついたところはなかった。解説に「斎藤先生と生徒会の確執が」云々ってあるけど、あれを見て斎藤先生と生徒会の確執は思うまいよ。「何通りもの解釈が可能になっているので、本当のところどうだったのかは見た人それぞれにお任せします」というのと、脚本の練り不足は違うんじゃないですか。インセプションのラストじゃないんだから。
 つまるところ、期待してたけれど、(よくない方向に)「思てたんと違う!」ってことです。